溺愛しすぎるデスティニー 6-1

麻斗結椛

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第6話 自棄


 目覚めた時、智秋は病院にいた。
 暗闇に落ちた瞬間を覚えているから、今、自分がいるのが、家でないことに驚いた。
 だが日付は同日の夕方で、決して瞬間移動したのではなかった。

 風呂場で倒れている智秋を見つけたのは、未明に帰宅した母親で、慌てて救急車を呼んだ。
 傷は大きく、見た目派手に血が出ていたが、血管を深く傷つけておらず、命に別状はなかった。
 それでも何針も縫われて、包帯にぐるぐる巻きにされた手首の中を、まだ智秋は見ていない。
 痛み止めが効きすぎて頭がぼうっとする。
 体調は最悪だ。
 長時間水にさらされて、身体は冷え切り、その前に陵辱されたこともあり、かなり衰弱している。

 だが、捨てる神あれば拾う神あり、というべきか。

 智秋の処置をした救急医が、智秋の身体を見て望まない性交渉の直後だと察知した。
 即座に腸内洗浄を施し、アフターピルを処方してくれたのだ。
 
「余計なお世話だったかな」
「いいえ……」
「お母さんはだいぶがっかりされていたから、余計なことをしたかと思っていたが、そうじゃなくてよかった」 

 智秋は薄く笑うだけだ。
 医者は智秋の親子関係の複雑さを察したのか、それ以上何も問わなかった。

 入院したのは、完全看護の病院。
 二十四時間、看護師が面倒を見てくれるので、母親はとっとと帰ったらしい。
 寂しいはずがない。むしろいないほうがせいせいする。
 
 入院二日目。
 智秋は四人部屋から個室に移動した。
 保険適用外なのにいいのかなあ、と思いながらも、深く考えなかった。
 個室の手配を、出張先の春海がしてくれたことを、智秋は知らない。
 
 個室のベッドに横たわる。
 とても静かで、快適だ。
 ドアは常に開いていて廊下が見えるが、時折看護師が通るけれど、全然邪魔にならない。
 大部屋は、智秋以外高齢女性ばかりで、なんやかんやと智秋をかまってくる。
 相手は親切心から優しくしてくれるのだろうが、今の智秋にはどうしても穏やかに人に接する余裕がない。
 わずかな人の気配くらいが、今の智秋にはちょうどよい。
 一人は寂しいが、一人でいたかった。

 入院三日目。
 体力はだいぶ回復した。
 傷が痛いのは、あえて鎮痛剤を飲むのを止めているから。
 痛みがないと、ただ大げさに包帯を巻いているだけで、自殺は智秋の夢の中の出来事のようにしか思えない。
 確かに死を選んだ。その現実を手首の痛みで感じていたかった。

 看護師に院内を散歩していいですよと言われても、智秋はゆるゆると首を振ってそれを断る。
 何もする気が起きない。歩くことさえ億劫だ。
 スマホは床頭台におきっぱなしで、触れもせず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 その時、リノリウムの廊下を忙しなくかける音が聞こえた。
 いつも静かなそこが、妙に騒がしい。
 看護師の「走らないでください!」という声。
 足音は、智秋の個室の前で止まった。

「智秋!」

 ゆっくりと首を動かして廊下の方を見ると、春海がいた。

「兄ちゃ……」

 智秋の声は吐息にしかならなかった。
 ずっと誰とも喋っていないから、喉が掠れてすぐに声が出ない。

 春海は海外出張だったのに。
 母親が珍しく親らしく、春海に智秋のトラブルを伝えたのだろうか。
 だが真相はどうでもよかった。

 春海がとるものもとりあえず帰ってきたのは、その様相からすぐに分かった。

 乱れた髪。着崩れたスーツ。手には重たそうなスーツケース。

「入っても、いい……?」

 智秋が小さく頷くと、遠慮がちに春海は入室した。
 スーツケースを床に下ろすと、よろよろと智秋に近づき、ベッド脇に崩れるように膝をついた。
 春海の目は真っ赤で、まぶたが腫れている。
 その視線が、智秋の左手首に注がれた。 

「智秋……」

 春海が無言で涙をほろほろと零す。
 その様子を智秋は無表情のまま、じっと見つめた。

 仕事を放り出して駆けつけてくれた、優しい兄。
 意識を失う瞬間まで、恋しく思っていた兄を目の前にして智秋は腹が立ってきた。

「なんで、泣くの?」
「え……?」

 春海がきょとんとする。

「泣きたいのは俺のほうだよ。レイプされて妊娠が怖くて、死のうとしたのに死ねなかった。俺は死ぬことすら、うまく出来ない」
「智秋の辛さは十分分かるよ。でも、僕は……っ」
「兄ちゃんに俺の気持ちが分かるって?」

 春海の言葉を遮り、智秋は怒鳴った。
   
「兄ちゃんに俺の気持ちは、絶対分からない!」
「智秋……」
「なんで、俺だけがこんな目にあうんだ? 兄ちゃんがレイプされそうになった時、清史郎さんが助けに来たのに、どうして俺は誰にも助けてもらえなかったんだ? 兄ちゃんはずるいよ。兄ちゃんばっかり、綺麗で、頭が良くて、いい会社に入って、ずっと大好きな人と付き合って。ねえ、俺、なにか悪いことした? バカだけど真面目に生きてきたのに、レイプされるほど、悪いことした? これはなにかの罰なの? ねえ!」
「智秋、ちがう、ちがうから。落ち着いて」

 興奮し声を荒げる智秋を、春海が必死に落ち着かせようと声をかける。
 春海の存在そのものが、今の智秋には苛立ちの根源だ。

「違わない。兄ちゃんには清史郎さんがいるけど、俺には誰もいない。俺は一人ぼっちだ」
「僕がいる、智秋。僕がいるから。何でもしてあげるから。言って? 僕に何して欲しい?」
「じゃあ、清史郎さんを俺が欲しいって言ったら、くれるの?」

 智秋は本気で言ったわけじゃなかった。
 ただ春海を困らせたかっただけ。

「……智秋がそれを願うなら」

 自己犠牲もここまでくれば嫌味だ。
 余計に頭にきて、左手にそっと触れていた春海の手を、智秋は邪険に振り払った。

「はあ? そんなこと、出来もしないくせに! バカにするな! もう兄ちゃんの顔なんて、見たくない。帰れよ! 二度と見舞いにも来ないで!」

 兄に罵声を浴びせ傷つけて、自分が救われたような気がした。
 それは一時的なもので、根本から立ち直らないと、分かっていても。

「分かった……。帰るよ。智秋、傷、大事にしてね……」

 智秋はそっぽを向いたまま、返事もしない。
 背中越しに春海が部屋出ていく気配を感じた。
 
 春海に優しくされればされるほど、智秋は惨めになる。
 兄を羨ましく思えど、嫉妬や嫌悪を感じたことは一度もない。
 しかし、今の智秋は、春海と一緒にいたら、どんどんイヤな奴になっていく。
 智秋は、筆舌に尽くし難い不幸で、ボロ布のように擦り切れ、穴だらけだ。
 そこから思いやりという、人として大事な何かを落としてしまった。


 ※ ※ ※

 
 退院したのは、春海の見舞いから一週間後。
 帰宅し、自室に入ると、部屋の荷物が半減していることに気づく。

 春海は、智秋が入院中に家を出ていた。

「突然、家を出るって言い出して驚いたよ。まあ、ここの家賃は引き続き出してくれるみたいだから、いいんだけどさ」

 迎えにきてくれた母親の言葉を、智秋は無言で聞いた。
 春海らしい行動だと思う。
 顔を見たくない、と言った智秋の言葉に従い、家を出ていった。
 その配慮すら智秋を苛つかせるが、顔を見て罵倒するよりはましだ。
 誰かを憎んだり恨んだりするのは、かなりのエネルギーを要する。
 憎む対象が側にいなければ、その分智秋は冷静でいられるのだ。

 その後、妊娠判定検査は、陰性との結果が出た。
 母親はがっくり肩を落としている。
 智秋はその反応に呆れこそすれ、怒る気力も起こらなかった。

 春海が家を出て、母親と二人だけの生活。
 智秋は退院したからといって、心身絶不調の状態は続いて、復学できず不登校になる。
 母親は、智秋の不登校を特に気にしていないようだ。
 このときばかりは、彼女の超放任主義に感謝した。
 かまわれない気楽さは、唯一の心の治療だ。
 
 退院後は、処方してもらった強力な抑制剤を毎日服用している。

(なんで毎日飲んでいなかったんだろう)

 同じ後悔を日々繰り返し、ぼんやり過ごす。
 副作用は酷く、頭痛、めまい、倦怠感に襲われる。
 誰にも会いたくなかった。アルファに限らず、全ての人に。
 智秋が引きこもり中に会って話をするのは、主治医だけだ。

「薬を少しずつ弱くしていこうね」

 そう提案されるが、智秋は頑なに拒んでいる。
 薬を飲み続けている間、引きこもり状態が続くのは分かっていた。
 智秋は、自らの性衝動を嫌悪するあまり、外出先で発症する恐怖にとらわれて、家から出られないのだ。
 うつ状態もこの薬の副作用の一つだが、服用している本人は気づいていない。

 事件後、二学期は一度も登校しないまま、終業式当日になる。
 その日の夕方、亜泉と琴葉が智秋の家を訪ねてきた。

「浅香」
「ちーちゃん……」 

 玄関ドアを開けて、二人の姿を外廊下に見た時、智秋は懐かしさに涙しそうになるが、ぐっとこらえた。
 ラインでメールをもらうが、智秋は無視していたし、彼らに直接会うのは数カ月ぶりだ。

「突然、ごめん。ほんとはもっと早くお見舞い来たかったんだけど……」
「……散らかってるけど、あがる?」
「……いいのか?」
「ああ」

 亜泉と琴葉が顔を見合わす。
 この二人、まだ付き合ってるんだ、と智秋は思った。

 先に二人を自室に通して、智秋は冷蔵庫からジュースと人数分のコップを持って部屋に戻った。
 二人は緊張義みに畳の上に正座している様子がおかしくて、つい口元が緩む。

「楽にしてよ」

 そう言って、智秋は持ってきたジュースを勧めた。

「ちーちゃん、おうちの人は、お出かけしてるの?」
「……さあ、知らないよ、あんなやつ」

 母親は働いていない。時折バイトだといって夜出て行くが、何をしているか知らないし、長続きしていないようだ。
 生活は国からの補助と、今は春海が家に入れるお金に大きく頼っている。

 亜泉と琴葉は、荒んだ様子の智秋に二の句を失っていた。
 学校での智秋はいつも朗らかで、智秋自身も自分は明るい性格だと思っていたほどだから、この荒みっぷりに彼らが引いても仕方がない。
 
「ち、ちーちゃん、二段ベッドなんだね。小学生まではあたし、お姉ちゃんと寝てたから、なつかしいな」
「俺はこないだまで兄ちゃんとここで二人で寝てた」
「うわあ、仲いいんだねえ」
「ううん。今、絶賛絶交中。今回の件で、俺に変に同情するから、追い出してやったんだ」

 せっかく琴葉が話題を変えようとしていたのに、智秋はそれすら台無しにする。
 なんて答えていいか分からないで困る琴葉を見て、ざまあみろと、智秋は思う。

「浅香」

 亜泉が唇をかみしめて、今にも泣き出しそうになるのをこらえているのか、声が震えている。

「俺、ずっと、おまえに謝りたかった」
「なんで、亜泉が謝るの?」
「おまえが北園に狙われてるの分かってたのに、阻止できなかった。本当に申し訳ない!」

 頭を下げる亜泉を見て、智秋の頭にかっと血が上る。

「おまえは関係ない。俺が悪いんだ」
「お前は悪くないよ」
「フェロモン垂れ流して、アルファの前にふらふら現れたら、オメガは犯されても文句言えねえんだよ!」
「おまえ、それ、本気で言ってるのか?」
「そうだけど?」
「ばか! 犯された方が悪いなんてあるかよ! それはアルファの勝手な理屈だ!」
「そんなの、どうでもいいよ。俺は死に損ないだ。生きてる価値もない」
「浅香! そんなこと言うなよ!」
「早く元気なちーちゃんに戻って。あたしたち、待ってるから」
「なあ、ことちゃん。北園にヤラれた俺って、そんなに前と違う? どんな? 汚い? 臭い? ねえ、教えてよ」

 自棄な言葉が、二人を黙らせる。
 彼らは何も悪いことをしていない。純粋に励まそうとしてるだけ。
 だが善意が相手を傷つけることもあるのだと、思い知らせたい。
 智秋と彼らの間には、大きな溝が出来てしまった。
 きっと二人は智秋の気持ちを理解したいと思っている。
 だが智秋にとってその思いやりは、傲慢以外のなにものでもない。

 頭の片隅で冷静な自分が、これ以上言うなと諭しても、暴言が止められなかった。

「ことちゃんはいいよね。こいつとしかエッチしてないんだろ? ベータは呑気でいいなあ。俺らみたいにいつ襲われるかなんて怯えなくていいんだもんねえ」
「浅香! やめろ!」

 智秋の恥ずかしい暴言に堪えきれず泣き出した琴葉を、亜泉が守る。
 
(おまえ、俺を守れなくて悪かったって、さっき謝ったばっかじゃねえか!)

 亜泉が恋人の琴葉をかばうのは当然だ。
 誰にも助けてもらえなかった自分がますます惨めで、見当違いの嫉妬に、智秋の怒りのボルテージはぐんと上がる。

「おまえらベータになあ、俺の、オメガの苦しみなんて、絶対に分かんねえんだよ! もう帰れよ!」

 智秋はぷいっとそっぽを向いた。
 これ以上彼らを見ていたら、何を言い出すか分からない。

「ちーちゃん……」
「琴葉、帰ろう」

 襖を開ける音がした。智秋は絶対に振り向くもんかと、意固地に背中を向けている。

「浅香、これだけは言わせてくれ」

 亜泉は、智秋が顔を背けたまま返事をしなくても、そのまま続けた。

「俺はベータだ。だからオメガの辛さを根本では理解できないと思う。でも、おまえは俺の親友だ。それはこの先もずっと変わらないから」
「ちーちゃん、怒らせてごめんね……」

 続けて琴葉が詫びる。智秋はどちらの言葉も無視した。

「北園だけど、あいつ、もう学校に来ないよ」

(え……?)

 智秋が無意識に振り返ると、廊下に立つ亜泉と目が合った。

「その様子だと知らなかったみたいだな。建前は留学だが、実質退学したらしい。どっちにしろ、あいつは学校にいない。三学期、学校に出てこいよ。待ってるからな」

 智秋は二人を見送りもせず、部屋で呆然としたまま、玄関の閉まる音を聞いた。

(北園が、いない?)

 学校には、病気療養を理由に長期欠席届を出している。
 学校側がレイプを把握しているかは、智秋に興味はなかった。
 どうせ北園は多額な寄付金を餌に、不祥事をもみ消したのだろうと思い込んでいた。
 なぜ北園は退学した理由が分からない。

 しかしうつ状態の思考はすぐ停止する。
 深く考えることを脳が拒否して、「どうでもいいや」と考えることをすぐに諦めた。



 その後、すぐに訪れた大晦日、そして、新年。
 春海は実家に一度も帰ってこなかった。




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Posted by麻斗結椛