溺愛しすぎるデスティニー 9
第9話 蘇る悪夢
智秋の恋人は、容姿も能力も優れない自分とは、釣り合いが取れないほど、男らしい美貌の持ち主。
そして彼は同族経営の大企業御曹司で、二十代前半という若輩でありながら、子会社の一つを任されるほど優秀だ。
仕事、忙しいんだろうなあ、ぐらいに、智秋はぼんやり思っていた。
だがその繁忙さを実は智秋の想像以上で、清史郎は過密スケジュールを調整して、ずっと智秋の店に通っていたのだ。
「とうとう春海にダメ出しされた……」
「兄ちゃんに?」
「君の店に通いすぎだと。業務に支障が出ているから回数を控えなさいと怒られた。それに近々、一週間ほどの出張が入ってくるみたいだし。智秋にそんな長期間会えなくなるのはいやだ。春海は鬼だ」
清史郎と付き合いだして一ヶ月が経つ。
智秋は週末は、彼が一人で住まうマンションに顔を出すようになっていた。
高級マンションの最上階。
部屋数は少ないが、一つ一つが広く、リビングは智秋の狭い家まるごとがすぽんと入るくらいだ。
白を基調にしたインテリアは高級さがそこはかとなく漂う。
十人は座れそうな大きなソファに二人で密着して座っている。
さすがに毎日ではないが、恋人同士になった今でも、清史郎はかなりの頻度で智秋の店に顔を出す。
もうアルコールは飲まないのは、仕事上がり、智秋を車で家まで送るためだ。
睡眠時間が足りているのかさすがに心配だ。
だが清史郎は「まったく問題ない」と頑固に取り合わない。
「無理して来なくていいんだってば。ていうか、兄ちゃんを鬼とかひどい! 兄ちゃんは清史郎さんのためにがんばってるのに! 出張だって、兄ちゃんが好きでいれたんじゃないだろ! そんなわがまま言うなよ!」
「智秋……」
最近ようやく智秋を呼ぶ時に「くん」が取れた。
まだこの呼び名に慣れなくて、名前を呼ばれるたびに、智秋はどきどきしてしまうのだ。
「分かってる。春海以上の優秀な秘書はいない。鬼は撤回する。俺のわがままが過ぎた。どうか怒らないでほしい」
「……分かってくれればいいけどさ」
「だけど、俺は毎日君に会いたいし、一秒でも長く一緒にいたいというのに、君はあいかわらず冷たい。だがそのつれなさもまた可愛いのだが」
「もう……そうじゃなくて、前から言ってるけど、体調が心配なんだよ。それに清史郎さんが店に通う意味、なくない?」
「どういう意味だ?」
「だって、その、俺……清史郎さんの、その……こ、恋人……」
自分の口から恋人と発するのが、これほどおこがましく、面映いものとは智秋は知らなかった。
「君は、俺が釣った魚には餌をやらない人間だと言いたいのか」
「ちが……うげっ!」
智秋は、彼の膝の間に座って、後ろから抱き締められている。
更に力強く抱き締められて、色気のかけらもない声がもれた。
「痛くしてすまない。君を好きすぎて力を込めすぎた」
「大丈夫だって。……でも、俺が言いたいのは、餌、もらいすぎだってことで……」
「君には迷惑かもしれないが、俺のささやかな幸せを、どうか奪わないでくれ」
清史郎は智秋を振り向かせ、顎をくいっと上げた。
壮絶な色気を放つ美しい顔。熱情のこもる眼差し。近づいてくる色っぽい唇。
智秋は美しい清史郎に見惚れて、彼の唇を受け入れる。
「ん……」
清史郎の唇が智秋のそれを優しく食む。
味わうように唇を何度か甘噛した後、すぐにそっと離れていく。
清史郎の唇は、とても柔らかい。
触れられだけなのに、智秋の内部には、温い湯水のような心地よい感覚がとろりと広がる。
「清史郎さん……」
清史郎とのキスは、既に何回めかで、初めての時はとても緊張したことを思い出す。
智秋は、自分の情欲も、他人から向けられるそれも、未だに怖い。
だが清史郎に熱っぽく見つめられたり、抱き締められたり、キスされても、全然平気だ。
彼となら、智秋が抱えるトラウマを克服できそうな気がしてくる。
(もっと、キスしてほしい……)
そんな願いを込めて、清史郎を見つめてみても、彼はそれ以上のことを智秋に求めてこない。
気がついたら、智秋は清史郎をものすごく好きになっていている。
きっと今は彼よりも智秋の愛情が大きいだろう。
だから余計に彼との間に、気持ちのズレを感じる。
(キス以上の事、きっと清史郎さんとなら、大丈夫なのに……)
清史郎の過剰な配慮が、智秋にはありがたくも、もどかしい。
だけど恋愛スキルゼロの智秋は、ここからどうしていいかのか、全然分からない。
智秋の悩みは、清史郎との関係をどう進めるかという、贅沢な内容に変わっていた。
※ ※ ※
春海に清史郎と付き合うようになったと、すぐに打ち明けた。
死ぬほど言いにくかった。しかし先延ばしにしても良いことはないのだ。
「智秋には言いにくいだろうから、俺が言う」
清史郎はそう気遣ってくれるが、彼に甘えたくなくて、断った。
これは智秋と春海、兄弟のけじめの問題だ。
「兄ちゃん、ごめん。俺、清史郎さんと……付き合ってる。恋人、として」
本当は直接言いたい。
だが清史郎と同等に繁忙な彼と予定が合わず、電話で伝えるしかなかった。
春海はすぐに反応がなくて、鼓動が高鳴る。
少し間を置いてから、「智秋は……ちゃんと清史郎を、好き?」と、春海は問うた。
「……うん。好きだ。清史郎さんを、好きだよ」
「そっか。好きになったんだね……よかった。もしも、無理やりだったら、僕、清史郎にお灸据えてたところだよ」
「兄ちゃん、ほんと、ごめんなさい」
何度謝っても、謝り足りない。
「智秋、僕に申し訳ないとか、そういうこと、思わなくていいからね。僕は清史郎と別れたけど、いまだに彼は特別な人だし、彼が幸せであることが、本当にうれしいんだ。それに智秋の恋人が清史郎なら、僕も安心だもん」
春海の強がりを言葉通りに受け止めてはいけない。
きっと春海の心は泣いている。
それでも、智秋は清史郎を好きになってしまった。
春海への遠慮より、清史郎への恋心が勝ってしまったことを、後悔しないし、してはならないのだ。
交際報告以来、二人は以前のように仲睦まじい兄弟に戻り、頻繁に話をするようになる。
昼休みの時間帯に、春海から電話がよくかかってくるようになっていた。
春海は、清史郎と智秋の交際を、兄の立場から過剰なほど心配する。
今日の話題はキスだ。
「智秋、清史郎にキスされて大丈夫? キモかったりしない?」
「兄ちゃん、元カレに対して酷くね?」
「清史郎、アルファだもん。そりゃ心配になるさ」
「そうだけど……清史郎さんは、大丈夫みたい」
「そう……で、智秋……それ以上は?」
セックスライフに口出しする春海は、かなりうざいブラコンだが、智秋は慣れっこで、なんとも思わない。
「それは、まだ、だけど」
「焦ったらだめだよ。清史郎に言っとく。早まるなって!」
「や、やめて! そんなこと、言わなくていいから! だって、清史郎さんは、その……」
(兄ちゃんに相談してみようかな……)
「全然その気にならないみたいだから……」
電話の向こうで春海が絶句している。
「好かれてるのは分かるんだ。だけど、やっぱ、俺、不細工だし、色気ないし……。あ、でもいいんだ! キスだけでも全然!」
春海がふうっと大きなため息をつく音が聞こえた。
「清史郎ってさ、見た目相手に不自由してませんって風貌じゃない?」
「う、うん。そうだね」
「けどね、本性は超ヘタレ。全然いくじなしなんだよねっ」
長年に渡る苦しい恋から解き放された反動で、春海は元カレの清史郎にかなり辛辣な批判を繰り広げる。
清史郎が春海のスパルタに根を上げるのも分かるような気がして、少しだけ恋人に同情した。
「今思い返せば、僕も散々彼に迫って、ようやく抱いてもらったし……ヒートを起こしにくいアルファも問題だよね!」
「そ、そうなんだ……」
智秋も、付き合ってみて、初めて分かったのだ。
壮絶に男前な清史郎が、とても純粋で、悲しいかな、鈍感な人だと。
美しく色っぽい春海でさえ、一線を超えるのに苦労したのだ。
兄の足元にも及ばない容姿の智秋は、一体どうすればいいのか。
「……兄ちゃん。清史郎さんに『智秋を抱いてやって』とか、余計なこと、言わないでよ」
「……えー……」
図星だ。釘を指してよかった。
「もう、そんなこと、人から言うことじゃないだろ! 恥ずかしい!」
「恥ずかしがってたら、先に進めないよ!」
「さっき、ゆっくりでいいって言ったじゃんか!」
「言ったけどさあ……。弟が悩んでたら、なんとかしてあげたいのが、兄心じゃないかあ……」
「兄ちゃんって、元カレの清史郎さんより、弟の俺の方が、ほんっと大事なんだね……」
「そんなの、あたりまえだよ!」
本当だったら疎遠になってもいいはずの二人だ。
兄の恋人を奪った弟。
それなのに春海は、智秋を今までと変わらず、いや、今まで以上に溺愛してくれる。
(兄ちゃんにも、新しい恋が、早く訪れますよに……)
智秋は春海に気づかれないように、電話口で鼻をすすった。
※ ※ ※
(買い物してから、出勤しよ)
いつもより早めに家を出た智秋は、ファッションビルに立ち寄る。
普段着より少しオシャレな私服でいつも店に出ているが、コーデのローテーションがマンネリ化している。
新しい服を投入する目的で、メンズショップをふらふらと覗いてまわる。
思いがけず飛び込んだ水商売の世界。
今まで身だしなみに無頓着だったが、仕事柄気にせざるを得ない。
小奇麗に着飾るようになった智秋の容姿は、以前よりだいぶ人目を惹くことに、本人は気づいていない。
華奢な体躯と、色白な肌は以前と変わらない。
発情期は智秋に艶やかな変化を与えた。
そばかすは薄まり、癖が酷くてまとまりにくかった赤毛は、緩いウェーブに落ち着いた。
だが一番の要因は、清史郎に与えられる愛情だ。
数点、洋服を買い、ほくほく顔でショップを出たところで、智秋は背後から声をかけられた。
「浅香……?」
「え?」
振り返ると、亜泉がいた。
「亜泉……」
亜泉はもともと爽やかな男だが、さらに精悍に、男らしくなっていた。
去年、二学期の終業式に、家を訪ねてきてくれたのに、八つ当たりして追い出して以来の、再会。
卒業式当日には、卒業証書をわざわざ家に持ってきてくれたのに、会いもしなかった。
智秋はばつが悪すぎて動けない。
しかし亜泉のほうから闊達に智秋に駆け寄ってきた。
「おまえ、外出できるくらい、元気になったんだ!」
「う、うん。おかげさまで……」
「そうか! よかった。おまえ、進学しなかったし、今頃どうしてるのかなって、ずっと気になってたんだ!」
「亜泉。ごめん」
智秋はぺこんと頭を下げた。
「どうした?」
「家に来てくれた時、おまえとことちゃんに酷い態度をとって、本当に悪かった。このとおりだ。許してもらえないかもしれないけど……」
「なんだ、そんなこと、気にしてねえよ!」
からからと亜泉が笑う。
「酷い態度って言うけどさ、おまえに降り掛かった災難に比べたら、なんてことないさ。八つ当たりで気が紛れるなら、お安い御用さ。どんどん当たってくれてよかったんだ。俺、ずっと、おまえが登校するの待ってたんだぜ」
亜泉の朗らかさに救われる。彼は何一つ変わっていない。
あの悲しい出来事の後も、ずっと心配してくれていたのに、智秋が勝手に疑心暗鬼になって、無視していたのだ。
「亜泉……ありがとう……」
立ち話で、互いの近況を語る。
亜泉は地元の大学に通っているらしい。
智秋が「ここで働いてる」と滅多に出番のない名刺を、亜泉に差し出した。
「ええっ! 浅香、ボーイズバーのキャストとかやってんの? 意外だ!」
「そんなびっくりしなくても……どうせ俺には似合わないよ……」
ちんちくりんの智秋と水商売。
おかしな組み合わせだが、あまりの仰天ぶりに、智秋はぷうっとむくれた。
「いや、納得してたんだよ。さっきおまえ見かけた時、浅香ってすぐに分からなかった。すっげえ垢抜けたし、可愛くなって、ちょっと色っぽくなってるし。ようやくオメガらしくなってよかったな!」
高校の頃、亜泉に頻繁に、オメガらしくない、とからかわれていた。
嫌味ではなく、言葉遊びで、智秋も無邪気に反論していたことを思い出す。
亜泉に裏表はない。いつも直球勝負だ。
だから素直に「あ、ありがと」と礼を言った。
「今度、ことちゃんとお店に来てよ。一杯だけ、おごったげる」
「あー、俺、琴葉とは、別れたんだよね」
「あ……」
智秋が、地雷を踏んだかも、という顔をしているのが、おかしかったのだろう。
亜泉が楽しそうに笑いながら、続けた。
「違う違う。そんな悲壮な顔すんなって。琴葉、県外の大学に進学したんだ。遠恋も考えたけど、俺ら若いし、離れててずっと同じ気持ち保っていられる自信ないねって話になって、恋人関係を解消したんだ。だから喧嘩別れとかじゃないし、今ではフツーに友達。あいつ、さっそく向こうで男作ってるし。別れて正解だよ、まったく」
「あ、亜泉は? カノジョ、出来た?」
「いやー、大学でモテてはいるけど、なかなかビビビってくるコがいなくてさー。ま、しばらくはお一人様を楽しむさ」
じゃ、近いうちに行くから、という亜泉と、そこで別れた。
思いがけない旧友との再会。
そして、わだかまりの解消。
智秋の足取りは、無意識に軽やかだった。
※ ※ ※
亜泉と再会した一週間後のことだった。
仲間のキャストに「昨日、チアキを訪ねて、若い男が来たよ」と言われた。
「誰だろ……」
「けっこう男前なヤツだったぜ。今日は休みだって言ったら、お前のシフトを聞かれたから教えておいたよ」
「ありがとう」
(男前……亜泉かな?)
さっそく足を運んでくれたと思うと、智秋はうれしい。
だがその日、亜泉はこなかった。
最近の清史郎は店に顔を出さないが、智秋の仕事が終わる午前二時過ぎに、必ず車で迎えにくる。
智秋は彼が落ち込まないようにと、やんわりと断ってみるのだが、頑固な清史郎は決して折れない。
キャストを初めて数ヶ月。
仕事は楽しいし、慣れてきたものの、昼夜逆転した生活は、清史郎とのサイクルが全く合わない。
繁忙な清史郎に無理をさせたくない。
サイクルを合わせるなら、智秋のほうだ。
進学か、昼間の仕事に転職か。
どちらにしても、アルファへの恐怖は、リハビリ効果で少しずつ薄らいでいる今、この仕事を続ける必要はなくなりつつあった。
(清史郎さんに相談してみよう。あ、兄ちゃんにも言わなくちゃ。兄ちゃんに内緒にしてたら、余計に心配されちゃうもんね)
店長のスバルは「清史郎さんの言いつけとおり、更衣室で待ってなさい」と言う。
だからいつもはそこに待機していて、清史郎の連絡を待つのだが。
スマホが着信した。
「あ、清史郎さんからだ」
【あと五分で駐車場。中で待っていなさい】
「心配症だなあ、もう」
智秋は幸せな愚痴をこぼす。
「そうだ! 先に駐車場に行って、驚かせよう!」
智秋はバーの裏口を出た。
清史郎は近くのパーキングに車を停めて、店に向かう。
智秋が駐車場に赴けば、それだけ早く清史郎に会えるのだ。
(清史郎さんに早く会いたい)
逸る思いで、路地を駆け出そうとした、その時だった。
「智秋チャン」
暗がりから伸びる手。
誰かに、がしっと手首を掴まれた。
粘ついた感触。猫撫声。
閉じ込めていたおぞましい記憶が、一気に蘇る。
智秋は動けない。
「やっと、捕まえた」
「……北園……? どうして……留学したんじゃ……」
北園は、以前より痩せていて、その分、目が異様にギラついている。
身なりも薄汚れていて、荒んだ生活を想像させた。
そして、力が異様に強くて、掴まれた手首は、千切れそうなほどに痛い。
だがそんなことより、目の前の男から漂う殺気に、足が竦んだ。
殺されるかもしない。
なのに助けを求める声も出せない。
「俺とヤッたの、確かに同意だったよなあ? 智秋チャンだって、よがって可愛い声だしてたじゃん。気持ちいいって何度も叫んでたよなあ」
「ち、ちが……俺、嫌だって……何度も……」
「フェロモン垂れ流して、アルファの俺の前に現れたオメガのおまえが悪いんだよ! 俺は全然悪くない! なのになんで俺が退学しなきゃなんないんだよ!」
発情するオメガが悪い。差別的で理不尽な理由。
時間をかけて、少しずつ呪縛はされつつあったのに、一気に時間があの時に、巻き戻る。
「それにしても、おまえ、ちょっと見ない間に、綺麗になったなあ」
亜泉に褒められた時は、面映ゆくても素直に受け入れたのに、北園からのそれは、生理的に身体が受け付けない。
吐き気をもよおして、口元を掴まれていないほうの手で押さえた。
「なあ、やらせろよ。それで帳消しにしてやるから」
「や……」
「智秋っ!」
深夜の繁華街の裏路地に、闇をつんざく怒号が響いた。
「……せいしろう……さん」
大声に呆気に取られた北園が動けない間に、鬼のような形相の清史郎が、すごい勢いで近づいてくる。
あっという間に智秋を奪い返し、背後に隠す。
清史郎の背中に守られて安心すると同時に、清史郎のただならぬ殺気を感じて、ぞっとする。
「おまえが北園さんところの、バカ息子か」
「はあ? おまえ、誰?」
「南条だ。南条コーポレーションといえば、おまえの愚かな頭でも理解できるか?」
「な、南条って……もしかして」
粋がっていた北園の勢いが弱まり、じりじり後ずさる。
「北園さんに話が違うと苦情を言わなくちゃならないな。バカ息子を日本から追放することを条件に、取引継続をしぶしぶ了承したというのに」
「お、おまえが親父を脅したのか!」
「日本以外の土地でのうのうと息が出来るだけでも、ありがたく思えなかったのか? おまえを人知れずこの世から抹殺する手段などいくらでもあるんだ」
清史郎は、北園の首を片手で正面からぐっと締め上げた。
北園は、清史郎の常軌を逸した殺意に、がたがた震えている。
「は、放せ!」
「おまえは智秋の懇願を無視して、彼を辱めた。なのにどうして俺がおまえの言うことを聞かなくてはならない? まったくおめでたい男だ。約束を違えたペナルティだ。北園さんには、今後一切取引をしない連絡を入れる」
「え! ちょ、ちょっと、それは……困るって!」
「知ったことではない」
清史郎は北園の首から乱暴に手を放した。北園はげほげほと咳き込む。
「大勢の社員を露頭に迷わす原因が、社長子息とは、北園さんも気の毒だが、致し方ない。身から出たサビだ。智秋、おいで」
智秋は清史郎の背中越しに二人の会話に聞き入っていて、すぐに反応できなかった。
「どうした?」
「せ、清史郎さん……俺……」
(清史郎さんが北園を退学させていたなんて、知らなかった……)
震える智秋を、清史郎はやさしく抱き寄せた。
慣れ親しんだ手のひらの温もりに、くたりと力が抜ける。
「あ、浅香! こいつ、おまえの何なんだよ!」
「おまえに説明する義理はない。智秋に気安く話しかけるな。そして二度と智秋に近づくな。もし近づいたら、その時はおまえを容赦なくこの世から消す。覚悟しておけ」
北園は二の句が告げず、悔しそうに唇を噛みしめている。
「さあ、智秋、帰ろう」
「う、うん……」
智秋は清史郎に促されるまま歩き出しながら、北園をちらりと盗み見た。
憤懣やるかたない様子で、北園が立ちすくみ、こちらを睨みつけている。
智秋は、北園の手がジャケットの右ポケットに入っているのが、なぜか気になった。
そして、その手が僅かに動く。
「清史郎さんっ!」
智秋はためらうことなく、清史郎をありったけの力で、横に突き飛ばした。
般若のような形相の北園が、刃物を手にこちらに向かってくる。
次の瞬間、智秋は右肩に激痛を感じた。
痛みのあまり、膝から崩れ落ちる。
そこから先の、智秋の記憶は、あいまいだ。
耳鳴りがうるさい。
視界に映る清史郎は、何か必死に叫んでいる。
「清史郎さん、けが、してない……?」
清史郎の声は聞こえない。
ただ彼が大きく頷いていた。
「よかった……守れた……」
智秋の呟きは、清史郎に届かないほど、弱々しいものだった。
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智秋の恋人は、容姿も能力も優れない自分とは、釣り合いが取れないほど、男らしい美貌の持ち主。
そして彼は同族経営の大企業御曹司で、二十代前半という若輩でありながら、子会社の一つを任されるほど優秀だ。
仕事、忙しいんだろうなあ、ぐらいに、智秋はぼんやり思っていた。
だがその繁忙さを実は智秋の想像以上で、清史郎は過密スケジュールを調整して、ずっと智秋の店に通っていたのだ。
「とうとう春海にダメ出しされた……」
「兄ちゃんに?」
「君の店に通いすぎだと。業務に支障が出ているから回数を控えなさいと怒られた。それに近々、一週間ほどの出張が入ってくるみたいだし。智秋にそんな長期間会えなくなるのはいやだ。春海は鬼だ」
清史郎と付き合いだして一ヶ月が経つ。
智秋は週末は、彼が一人で住まうマンションに顔を出すようになっていた。
高級マンションの最上階。
部屋数は少ないが、一つ一つが広く、リビングは智秋の狭い家まるごとがすぽんと入るくらいだ。
白を基調にしたインテリアは高級さがそこはかとなく漂う。
十人は座れそうな大きなソファに二人で密着して座っている。
さすがに毎日ではないが、恋人同士になった今でも、清史郎はかなりの頻度で智秋の店に顔を出す。
もうアルコールは飲まないのは、仕事上がり、智秋を車で家まで送るためだ。
睡眠時間が足りているのかさすがに心配だ。
だが清史郎は「まったく問題ない」と頑固に取り合わない。
「無理して来なくていいんだってば。ていうか、兄ちゃんを鬼とかひどい! 兄ちゃんは清史郎さんのためにがんばってるのに! 出張だって、兄ちゃんが好きでいれたんじゃないだろ! そんなわがまま言うなよ!」
「智秋……」
最近ようやく智秋を呼ぶ時に「くん」が取れた。
まだこの呼び名に慣れなくて、名前を呼ばれるたびに、智秋はどきどきしてしまうのだ。
「分かってる。春海以上の優秀な秘書はいない。鬼は撤回する。俺のわがままが過ぎた。どうか怒らないでほしい」
「……分かってくれればいいけどさ」
「だけど、俺は毎日君に会いたいし、一秒でも長く一緒にいたいというのに、君はあいかわらず冷たい。だがそのつれなさもまた可愛いのだが」
「もう……そうじゃなくて、前から言ってるけど、体調が心配なんだよ。それに清史郎さんが店に通う意味、なくない?」
「どういう意味だ?」
「だって、その、俺……清史郎さんの、その……こ、恋人……」
自分の口から恋人と発するのが、これほどおこがましく、面映いものとは智秋は知らなかった。
「君は、俺が釣った魚には餌をやらない人間だと言いたいのか」
「ちが……うげっ!」
智秋は、彼の膝の間に座って、後ろから抱き締められている。
更に力強く抱き締められて、色気のかけらもない声がもれた。
「痛くしてすまない。君を好きすぎて力を込めすぎた」
「大丈夫だって。……でも、俺が言いたいのは、餌、もらいすぎだってことで……」
「君には迷惑かもしれないが、俺のささやかな幸せを、どうか奪わないでくれ」
清史郎は智秋を振り向かせ、顎をくいっと上げた。
壮絶な色気を放つ美しい顔。熱情のこもる眼差し。近づいてくる色っぽい唇。
智秋は美しい清史郎に見惚れて、彼の唇を受け入れる。
「ん……」
清史郎の唇が智秋のそれを優しく食む。
味わうように唇を何度か甘噛した後、すぐにそっと離れていく。
清史郎の唇は、とても柔らかい。
触れられだけなのに、智秋の内部には、温い湯水のような心地よい感覚がとろりと広がる。
「清史郎さん……」
清史郎とのキスは、既に何回めかで、初めての時はとても緊張したことを思い出す。
智秋は、自分の情欲も、他人から向けられるそれも、未だに怖い。
だが清史郎に熱っぽく見つめられたり、抱き締められたり、キスされても、全然平気だ。
彼となら、智秋が抱えるトラウマを克服できそうな気がしてくる。
(もっと、キスしてほしい……)
そんな願いを込めて、清史郎を見つめてみても、彼はそれ以上のことを智秋に求めてこない。
気がついたら、智秋は清史郎をものすごく好きになっていている。
きっと今は彼よりも智秋の愛情が大きいだろう。
だから余計に彼との間に、気持ちのズレを感じる。
(キス以上の事、きっと清史郎さんとなら、大丈夫なのに……)
清史郎の過剰な配慮が、智秋にはありがたくも、もどかしい。
だけど恋愛スキルゼロの智秋は、ここからどうしていいかのか、全然分からない。
智秋の悩みは、清史郎との関係をどう進めるかという、贅沢な内容に変わっていた。
※ ※ ※
春海に清史郎と付き合うようになったと、すぐに打ち明けた。
死ぬほど言いにくかった。しかし先延ばしにしても良いことはないのだ。
「智秋には言いにくいだろうから、俺が言う」
清史郎はそう気遣ってくれるが、彼に甘えたくなくて、断った。
これは智秋と春海、兄弟のけじめの問題だ。
「兄ちゃん、ごめん。俺、清史郎さんと……付き合ってる。恋人、として」
本当は直接言いたい。
だが清史郎と同等に繁忙な彼と予定が合わず、電話で伝えるしかなかった。
春海はすぐに反応がなくて、鼓動が高鳴る。
少し間を置いてから、「智秋は……ちゃんと清史郎を、好き?」と、春海は問うた。
「……うん。好きだ。清史郎さんを、好きだよ」
「そっか。好きになったんだね……よかった。もしも、無理やりだったら、僕、清史郎にお灸据えてたところだよ」
「兄ちゃん、ほんと、ごめんなさい」
何度謝っても、謝り足りない。
「智秋、僕に申し訳ないとか、そういうこと、思わなくていいからね。僕は清史郎と別れたけど、いまだに彼は特別な人だし、彼が幸せであることが、本当にうれしいんだ。それに智秋の恋人が清史郎なら、僕も安心だもん」
春海の強がりを言葉通りに受け止めてはいけない。
きっと春海の心は泣いている。
それでも、智秋は清史郎を好きになってしまった。
春海への遠慮より、清史郎への恋心が勝ってしまったことを、後悔しないし、してはならないのだ。
交際報告以来、二人は以前のように仲睦まじい兄弟に戻り、頻繁に話をするようになる。
昼休みの時間帯に、春海から電話がよくかかってくるようになっていた。
春海は、清史郎と智秋の交際を、兄の立場から過剰なほど心配する。
今日の話題はキスだ。
「智秋、清史郎にキスされて大丈夫? キモかったりしない?」
「兄ちゃん、元カレに対して酷くね?」
「清史郎、アルファだもん。そりゃ心配になるさ」
「そうだけど……清史郎さんは、大丈夫みたい」
「そう……で、智秋……それ以上は?」
セックスライフに口出しする春海は、かなりうざいブラコンだが、智秋は慣れっこで、なんとも思わない。
「それは、まだ、だけど」
「焦ったらだめだよ。清史郎に言っとく。早まるなって!」
「や、やめて! そんなこと、言わなくていいから! だって、清史郎さんは、その……」
(兄ちゃんに相談してみようかな……)
「全然その気にならないみたいだから……」
電話の向こうで春海が絶句している。
「好かれてるのは分かるんだ。だけど、やっぱ、俺、不細工だし、色気ないし……。あ、でもいいんだ! キスだけでも全然!」
春海がふうっと大きなため息をつく音が聞こえた。
「清史郎ってさ、見た目相手に不自由してませんって風貌じゃない?」
「う、うん。そうだね」
「けどね、本性は超ヘタレ。全然いくじなしなんだよねっ」
長年に渡る苦しい恋から解き放された反動で、春海は元カレの清史郎にかなり辛辣な批判を繰り広げる。
清史郎が春海のスパルタに根を上げるのも分かるような気がして、少しだけ恋人に同情した。
「今思い返せば、僕も散々彼に迫って、ようやく抱いてもらったし……ヒートを起こしにくいアルファも問題だよね!」
「そ、そうなんだ……」
智秋も、付き合ってみて、初めて分かったのだ。
壮絶に男前な清史郎が、とても純粋で、悲しいかな、鈍感な人だと。
美しく色っぽい春海でさえ、一線を超えるのに苦労したのだ。
兄の足元にも及ばない容姿の智秋は、一体どうすればいいのか。
「……兄ちゃん。清史郎さんに『智秋を抱いてやって』とか、余計なこと、言わないでよ」
「……えー……」
図星だ。釘を指してよかった。
「もう、そんなこと、人から言うことじゃないだろ! 恥ずかしい!」
「恥ずかしがってたら、先に進めないよ!」
「さっき、ゆっくりでいいって言ったじゃんか!」
「言ったけどさあ……。弟が悩んでたら、なんとかしてあげたいのが、兄心じゃないかあ……」
「兄ちゃんって、元カレの清史郎さんより、弟の俺の方が、ほんっと大事なんだね……」
「そんなの、あたりまえだよ!」
本当だったら疎遠になってもいいはずの二人だ。
兄の恋人を奪った弟。
それなのに春海は、智秋を今までと変わらず、いや、今まで以上に溺愛してくれる。
(兄ちゃんにも、新しい恋が、早く訪れますよに……)
智秋は春海に気づかれないように、電話口で鼻をすすった。
※ ※ ※
(買い物してから、出勤しよ)
いつもより早めに家を出た智秋は、ファッションビルに立ち寄る。
普段着より少しオシャレな私服でいつも店に出ているが、コーデのローテーションがマンネリ化している。
新しい服を投入する目的で、メンズショップをふらふらと覗いてまわる。
思いがけず飛び込んだ水商売の世界。
今まで身だしなみに無頓着だったが、仕事柄気にせざるを得ない。
小奇麗に着飾るようになった智秋の容姿は、以前よりだいぶ人目を惹くことに、本人は気づいていない。
華奢な体躯と、色白な肌は以前と変わらない。
発情期は智秋に艶やかな変化を与えた。
そばかすは薄まり、癖が酷くてまとまりにくかった赤毛は、緩いウェーブに落ち着いた。
だが一番の要因は、清史郎に与えられる愛情だ。
数点、洋服を買い、ほくほく顔でショップを出たところで、智秋は背後から声をかけられた。
「浅香……?」
「え?」
振り返ると、亜泉がいた。
「亜泉……」
亜泉はもともと爽やかな男だが、さらに精悍に、男らしくなっていた。
去年、二学期の終業式に、家を訪ねてきてくれたのに、八つ当たりして追い出して以来の、再会。
卒業式当日には、卒業証書をわざわざ家に持ってきてくれたのに、会いもしなかった。
智秋はばつが悪すぎて動けない。
しかし亜泉のほうから闊達に智秋に駆け寄ってきた。
「おまえ、外出できるくらい、元気になったんだ!」
「う、うん。おかげさまで……」
「そうか! よかった。おまえ、進学しなかったし、今頃どうしてるのかなって、ずっと気になってたんだ!」
「亜泉。ごめん」
智秋はぺこんと頭を下げた。
「どうした?」
「家に来てくれた時、おまえとことちゃんに酷い態度をとって、本当に悪かった。このとおりだ。許してもらえないかもしれないけど……」
「なんだ、そんなこと、気にしてねえよ!」
からからと亜泉が笑う。
「酷い態度って言うけどさ、おまえに降り掛かった災難に比べたら、なんてことないさ。八つ当たりで気が紛れるなら、お安い御用さ。どんどん当たってくれてよかったんだ。俺、ずっと、おまえが登校するの待ってたんだぜ」
亜泉の朗らかさに救われる。彼は何一つ変わっていない。
あの悲しい出来事の後も、ずっと心配してくれていたのに、智秋が勝手に疑心暗鬼になって、無視していたのだ。
「亜泉……ありがとう……」
立ち話で、互いの近況を語る。
亜泉は地元の大学に通っているらしい。
智秋が「ここで働いてる」と滅多に出番のない名刺を、亜泉に差し出した。
「ええっ! 浅香、ボーイズバーのキャストとかやってんの? 意外だ!」
「そんなびっくりしなくても……どうせ俺には似合わないよ……」
ちんちくりんの智秋と水商売。
おかしな組み合わせだが、あまりの仰天ぶりに、智秋はぷうっとむくれた。
「いや、納得してたんだよ。さっきおまえ見かけた時、浅香ってすぐに分からなかった。すっげえ垢抜けたし、可愛くなって、ちょっと色っぽくなってるし。ようやくオメガらしくなってよかったな!」
高校の頃、亜泉に頻繁に、オメガらしくない、とからかわれていた。
嫌味ではなく、言葉遊びで、智秋も無邪気に反論していたことを思い出す。
亜泉に裏表はない。いつも直球勝負だ。
だから素直に「あ、ありがと」と礼を言った。
「今度、ことちゃんとお店に来てよ。一杯だけ、おごったげる」
「あー、俺、琴葉とは、別れたんだよね」
「あ……」
智秋が、地雷を踏んだかも、という顔をしているのが、おかしかったのだろう。
亜泉が楽しそうに笑いながら、続けた。
「違う違う。そんな悲壮な顔すんなって。琴葉、県外の大学に進学したんだ。遠恋も考えたけど、俺ら若いし、離れててずっと同じ気持ち保っていられる自信ないねって話になって、恋人関係を解消したんだ。だから喧嘩別れとかじゃないし、今ではフツーに友達。あいつ、さっそく向こうで男作ってるし。別れて正解だよ、まったく」
「あ、亜泉は? カノジョ、出来た?」
「いやー、大学でモテてはいるけど、なかなかビビビってくるコがいなくてさー。ま、しばらくはお一人様を楽しむさ」
じゃ、近いうちに行くから、という亜泉と、そこで別れた。
思いがけない旧友との再会。
そして、わだかまりの解消。
智秋の足取りは、無意識に軽やかだった。
※ ※ ※
亜泉と再会した一週間後のことだった。
仲間のキャストに「昨日、チアキを訪ねて、若い男が来たよ」と言われた。
「誰だろ……」
「けっこう男前なヤツだったぜ。今日は休みだって言ったら、お前のシフトを聞かれたから教えておいたよ」
「ありがとう」
(男前……亜泉かな?)
さっそく足を運んでくれたと思うと、智秋はうれしい。
だがその日、亜泉はこなかった。
最近の清史郎は店に顔を出さないが、智秋の仕事が終わる午前二時過ぎに、必ず車で迎えにくる。
智秋は彼が落ち込まないようにと、やんわりと断ってみるのだが、頑固な清史郎は決して折れない。
キャストを初めて数ヶ月。
仕事は楽しいし、慣れてきたものの、昼夜逆転した生活は、清史郎とのサイクルが全く合わない。
繁忙な清史郎に無理をさせたくない。
サイクルを合わせるなら、智秋のほうだ。
進学か、昼間の仕事に転職か。
どちらにしても、アルファへの恐怖は、リハビリ効果で少しずつ薄らいでいる今、この仕事を続ける必要はなくなりつつあった。
(清史郎さんに相談してみよう。あ、兄ちゃんにも言わなくちゃ。兄ちゃんに内緒にしてたら、余計に心配されちゃうもんね)
店長のスバルは「清史郎さんの言いつけとおり、更衣室で待ってなさい」と言う。
だからいつもはそこに待機していて、清史郎の連絡を待つのだが。
スマホが着信した。
「あ、清史郎さんからだ」
【あと五分で駐車場。中で待っていなさい】
「心配症だなあ、もう」
智秋は幸せな愚痴をこぼす。
「そうだ! 先に駐車場に行って、驚かせよう!」
智秋はバーの裏口を出た。
清史郎は近くのパーキングに車を停めて、店に向かう。
智秋が駐車場に赴けば、それだけ早く清史郎に会えるのだ。
(清史郎さんに早く会いたい)
逸る思いで、路地を駆け出そうとした、その時だった。
「智秋チャン」
暗がりから伸びる手。
誰かに、がしっと手首を掴まれた。
粘ついた感触。猫撫声。
閉じ込めていたおぞましい記憶が、一気に蘇る。
智秋は動けない。
「やっと、捕まえた」
「……北園……? どうして……留学したんじゃ……」
北園は、以前より痩せていて、その分、目が異様にギラついている。
身なりも薄汚れていて、荒んだ生活を想像させた。
そして、力が異様に強くて、掴まれた手首は、千切れそうなほどに痛い。
だがそんなことより、目の前の男から漂う殺気に、足が竦んだ。
殺されるかもしない。
なのに助けを求める声も出せない。
「俺とヤッたの、確かに同意だったよなあ? 智秋チャンだって、よがって可愛い声だしてたじゃん。気持ちいいって何度も叫んでたよなあ」
「ち、ちが……俺、嫌だって……何度も……」
「フェロモン垂れ流して、アルファの俺の前に現れたオメガのおまえが悪いんだよ! 俺は全然悪くない! なのになんで俺が退学しなきゃなんないんだよ!」
発情するオメガが悪い。差別的で理不尽な理由。
時間をかけて、少しずつ呪縛はされつつあったのに、一気に時間があの時に、巻き戻る。
「それにしても、おまえ、ちょっと見ない間に、綺麗になったなあ」
亜泉に褒められた時は、面映ゆくても素直に受け入れたのに、北園からのそれは、生理的に身体が受け付けない。
吐き気をもよおして、口元を掴まれていないほうの手で押さえた。
「なあ、やらせろよ。それで帳消しにしてやるから」
「や……」
「智秋っ!」
深夜の繁華街の裏路地に、闇をつんざく怒号が響いた。
「……せいしろう……さん」
大声に呆気に取られた北園が動けない間に、鬼のような形相の清史郎が、すごい勢いで近づいてくる。
あっという間に智秋を奪い返し、背後に隠す。
清史郎の背中に守られて安心すると同時に、清史郎のただならぬ殺気を感じて、ぞっとする。
「おまえが北園さんところの、バカ息子か」
「はあ? おまえ、誰?」
「南条だ。南条コーポレーションといえば、おまえの愚かな頭でも理解できるか?」
「な、南条って……もしかして」
粋がっていた北園の勢いが弱まり、じりじり後ずさる。
「北園さんに話が違うと苦情を言わなくちゃならないな。バカ息子を日本から追放することを条件に、取引継続をしぶしぶ了承したというのに」
「お、おまえが親父を脅したのか!」
「日本以外の土地でのうのうと息が出来るだけでも、ありがたく思えなかったのか? おまえを人知れずこの世から抹殺する手段などいくらでもあるんだ」
清史郎は、北園の首を片手で正面からぐっと締め上げた。
北園は、清史郎の常軌を逸した殺意に、がたがた震えている。
「は、放せ!」
「おまえは智秋の懇願を無視して、彼を辱めた。なのにどうして俺がおまえの言うことを聞かなくてはならない? まったくおめでたい男だ。約束を違えたペナルティだ。北園さんには、今後一切取引をしない連絡を入れる」
「え! ちょ、ちょっと、それは……困るって!」
「知ったことではない」
清史郎は北園の首から乱暴に手を放した。北園はげほげほと咳き込む。
「大勢の社員を露頭に迷わす原因が、社長子息とは、北園さんも気の毒だが、致し方ない。身から出たサビだ。智秋、おいで」
智秋は清史郎の背中越しに二人の会話に聞き入っていて、すぐに反応できなかった。
「どうした?」
「せ、清史郎さん……俺……」
(清史郎さんが北園を退学させていたなんて、知らなかった……)
震える智秋を、清史郎はやさしく抱き寄せた。
慣れ親しんだ手のひらの温もりに、くたりと力が抜ける。
「あ、浅香! こいつ、おまえの何なんだよ!」
「おまえに説明する義理はない。智秋に気安く話しかけるな。そして二度と智秋に近づくな。もし近づいたら、その時はおまえを容赦なくこの世から消す。覚悟しておけ」
北園は二の句が告げず、悔しそうに唇を噛みしめている。
「さあ、智秋、帰ろう」
「う、うん……」
智秋は清史郎に促されるまま歩き出しながら、北園をちらりと盗み見た。
憤懣やるかたない様子で、北園が立ちすくみ、こちらを睨みつけている。
智秋は、北園の手がジャケットの右ポケットに入っているのが、なぜか気になった。
そして、その手が僅かに動く。
「清史郎さんっ!」
智秋はためらうことなく、清史郎をありったけの力で、横に突き飛ばした。
般若のような形相の北園が、刃物を手にこちらに向かってくる。
次の瞬間、智秋は右肩に激痛を感じた。
痛みのあまり、膝から崩れ落ちる。
そこから先の、智秋の記憶は、あいまいだ。
耳鳴りがうるさい。
視界に映る清史郎は、何か必死に叫んでいる。
「清史郎さん、けが、してない……?」
清史郎の声は聞こえない。
ただ彼が大きく頷いていた。
「よかった……守れた……」
智秋の呟きは、清史郎に届かないほど、弱々しいものだった。
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